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      2. 帝國興信所が作成した「鈴木商店調査書」シリーズ④「樟脳及薄荷製造業」(調査書P25~33)をご紹介します。

        2024.6.30.

        「鈴木商店調査書」をご紹介するシリーズの4回目です。

        syounou.jpg明治20年代以降、鈴木商店は樟脳の取扱いを開始し、その責任者には入店間もない金子直吉(明治19年、20歳の時入店)が就任しました。

        鈴木商店は國內から集まる樟脳を神戸居留地の外國商館に販売するほか、神戸の和田岬付近に勃興した樟脳再製業者に樟脳油を供給するとともに再製樟脳を買い取り、外國商館に販売しました。(左の寫真は、樟脳の結晶です)

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        その後、鈴木商店は樟脳再製業の最有力者?小松楠彌(右の寫真)と連攜して神戸の樟脳再製業者らと同業組織「小松組」を結成すると明治28(1895)年、まず小松組をもって日清戦爭終結後の下関條約締結により日本領土となったばかりの臺灣に樟脳を求めて進出しました。

        そして、金子は明治32(1899)年の臺灣樟脳専売制度の実現に盡力して臺灣総督府民生長官?後藤新平の信頼を勝ち取ることにより鈴木商店は樟脳油の65%の販売権を獲得しました。

        kanekonaokititigotousinpei.pngそして、このことが鈴木商店の経営の基礎となり、資本の蓄積を進めるとともに生産部門へ進出する契機ともなりました。(左の寫真は、金子直吉と後藤新平です)

        神戸の樟脳再製業者の各工場は、鈴木商店の臺灣進出以降移入された大量の樟脳油に対応しきれなくなったため、鈴木商店はこれら樟脳再製工場の共同経営に進出し明治33(1900)年、自ら神戸市葺合(ふきあい)?旭通に樟脳再製工場(後の小野浜製脳所)を建設し、樟脳再製業者の各工場の職工をこの新工場に移していきました。

        明治36(1903)年、金子は樟脳の內臺共通専売制度の導入に際し、本制度導入に反対する樟脳再製業者の同意を得るため、「匿名組合」を組織して共同で再製を請け負うことを提案し、実現しました。その結果、樟脳油の再製については內地産?臺灣産ともに「匿名組合」を統括する鈴木商店が一手に行う體制が確立し、神戸の樟脳再製工場はすべて鈴木商店の傘下に入りました。

        このように、鈴木商店は樟脳油の再製において圧倒的な地位を確立しましたが、その後対外交渉力や同業者の結束力向上の観點から前記の匿名組合を會社組織に変更する必要が生じたため大正8(1919)年12月、鈴木商店の主導により神戸の再製業者すべてを網羅する形で再製樟脳(株)(現?日本テルペン化學、日本香料薬品)が設立されました。

        その一方で、鈴木商店は樟脳の精製業にも注力し明治36(1903)年、神戸市葺合(?雲井通の住友精製樟脳製造所を藤田助七の名義で買収し、大正2(1913)年にはこれを鈴木商店傘下の日本商業の名義に変更しました。(日本商業樟脳精製所)また同年、神戸市葺合?小野柄(おのえ)通の葺合樟脳精製所を買収しました。(下の寫真左は、日本樟脳 [舊?日本商業樟脳精製所]、右は葺合樟脳精製所です)

        syounouseiseijyo.png當時、國策による樟脳精製業隆盛の中で各精製業者は激しい競爭を繰り広げていましたが、その中心にいたのが國內最大の精製業者として圧倒的なシェアを誇る日本商業(シェア60%余り)と大日本塩業(舊?臺灣塩業)を擁する鈴木商店で、三井物産系の精製業者と激しく競合する関係となっていました。しかし大正6(1917)年3月、両者は競爭回避の道を選び、臺北に共同で臺灣精製樟脳(株)を設立しました。

        その後、この新會社は新たに設立された日本樟脳(株)(現?日本精化)(*)に合流します。

        (*)大戦景気がもたらした過當競爭による樟脳精製業界の疲弊を抑制する目的で日本政府が強い指導を行った結果、業界統一をはかるべく大正7(1918)年2月、內地の精製業者7社(鈴木系:日本商業、葺合樟脳精製所、大日本塩業(舊?臺灣塩業)、神戸樟脳精製、三井物産系:朝日樟脳、藤沢友吉商店、鈴木?三井系:臺灣精製樟脳)に海外委託販売人の三井物産を加えて日本樟脳(株)が設立されました。

        一方、薄荷は樟脳と並ぶ鈴木商店創業期の主要品目でした。金子直吉が入店當時に神戸居留地の外國商館、ラスペ商會に樟脳を売り込みに行った際に同商會が薄荷に強い興味を示したことから取扱いを開始し明治35(1902)年、神戸市葺合?雲井通に薄荷製造所を建設しました。

        これは、明治33(1900)年に鈴木商店が神戸市葺合?旭通に建設した樟脳再製工場に次ぐ直営工場でした。翌明治36(1903)年には神戸市磯上通4丁目にも薄荷工場を新設し、両工場は年を追うごとにその取扱量が増加していきました。(下の寫真左は、薄荷の葉、右は薄荷の結晶です)

        hakka.png鈴木商店は昭和2(1927)年4月に経営破綻しましたが、同年7月には同社の薄荷部門が獨立して鈴木薄荷合資會社が設立され、現在は "鈴木" の名稱と "カネタツ" の商標を継承する唯一の天然薄荷専業メーカー、鈴木薄荷(株)として発展を続けています。

        なお、調査書には、樟脳精製所として日本商業會社樟脳精製所、合資會社葺合樟脳精製所、神戸樟脳精製合資會社臺灣精製樟脳株式會社が、再製樟脳製造所として鈴木商店小野濱製脳所、鈴木商店脇濱製脳所が記されています。加えて、「柳田富士松伝」にも掲載されている栁田りゅうのう製造所と鈴木商店臺北樟脳工場が記されています。

        帝國興信所が作成した「鈴木商店調査書」シリーズ⑤「大里酒精及焼酎醸造工場」(調査書P37~38)をご紹介します。

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